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逃げたい、ただそれだけ

自分と向き合う

生きるとは、何なんだろうか。

 

 

 

死を待つこと、お金を稼ぐこと、幸せになること。

 

 

 

色々な考えを今まで本や人から得てきたけど、

 

 

 

絶対的な答えはないと思う。

 

 

 

生きるとは、生きる意味とは目的とは、

 

 

 

きっと自分で決めるものなのだろうと、うすうす気づく。

 

 

 

これはある次元においては諦めで、

 

 

 

ある次元においては希望だと思う。

 

 

 

そもそも「なぜ、生きる。」という質問自体がすこし変だと思う。

 

 

 

なぜなら、「なぜ、生きる」は意味っていう物差しでは、測れないと思うから。

 

 

 

おもりの重さを定規で測るみたいな感じだと僕は捉えている。

 

 

 

つまり、考えこむだけ無駄ってことだ。

 

 

 

でも、この「なぜ、生きる」って思ってしまったときは、チャンスでもある。

 

 

 

さっき、書いた、「ある次元においては希望」というのは、

 

 

 

人間特有の自分で意味を見出せるということである。

 

 

 

精神科医ヴィクトール・エミール・フランクル

著書「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録 (みすず書房)」でこのようなことを書いている。

 

すなわち、人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

(p183 1行-3行目)

 

すなわち、われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。

(p183 4行-5行目)

 

引用「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録(みすず書房)著V.E.フランクル 霜山徳爾訳」

 

これが、彼の「人生の意味」に対する答え方である。

 

 

 

「人生の意味」を求めても、見つけることは難しい。

 

 

 

なぜなら、一般論的な答えが出せる問いではないから。

 

 

 

だから、考えを転換して、「問う者」、ではなく

 

 

 

「問われる者」の立場になることで、人生の意味に答えることができる。

 

 

 

つまり、質問者ではなく、回答者として生きるということである。

 

 

 

回答者になった瞬間から自分と向き合い始める。

 

 

 

自分とは何者で、どこへ行くのかを自分で定義する。

 

 

 

これが人間本来の生き方だと僕は思う。

 

 

 

生きるとは常に答え続けることだと僕は思う。