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逃げたい、ただそれだけ

依存することの大切さ

おはこんばんにちは、たけです。

 

「依存」っていう言葉を聞いて何を思い浮かべますか。

 

 

依存って悪いものじゃないよ

多くの人が依存と聞いて、「ギャンブル依存」、「麻薬依存」、「メンヘラ」

 

みたいなことを思い浮かべるかと思います。

 

なので"依存"という言葉には悪いイメージが付きがちです。

 

では、本当に依存って悪いことなんでしょうか。

 

僕の中の"依存"="悪い"という方程式を壊すために、頭の中で考えていることを言語化したいと思います。

 

 

依存って人間が生きていくうえで大事なものだと思うんです。

無意識的に僕たちは依存している面があります。

 

例えば子供と親。

 

生まれたばかりの子供は自分では何もできません。

 

なので、親に依存しないと生きていけないですよね。

 

また親も自分の存在意義を子を持つことで見出していると考えた場合、

 

親も子に依存していることになります。

 

いわゆる共依存というものです。

 

"共依存"というとよくないイメージが浮かんでくるんですが、こういった関係が僕らを生かしているわけで、一概に悪いものとは言えないと思えます。

 

 

依存は精神に影響を与える

すでに依存っていう言葉が僕の中でゲシュタルト崩壊してますが書きます。

 

依存することは精神にめちゃめちゃ影響を与えます。

 

"安全基地"という言葉を知っていますか?

 

安全基地とは、子供にとっての愛着対象が幼い子供に提供する心地よい安定や保護などを保証した環境を意味する。 子供は母親などの養育者を安全基地のように感じられると、好奇心は外の世界に向けられ、外的世界を探検することができるようになる。 危険信号を感じると愛着対象にしがみつき、危険が過ぎると再度探索を行う。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

子供は幼少期に安全基地(おそらく一般的には親に依存することで得られる)を持つことで、徐々に外の世界への興味などを持ち始め、自分の世界を構築していく段階に進みます。

 

これは幼少期の(健全な)依存ありきの話です。

 

もし親と子の依存関係が少しでも歪であると、生きていくうえで障害となります。

 

僕は、人生は依存先を探す旅だと考えます。

 

親と子の依存関係を出発点とし、学生になれば友達や学校というコミュニティへの依存、社会人になれば会社への依存というものは必須になります。

 

もしも、安全基地の獲得ができない場合、外の世界へ興味を持ちづらくなります。

 

なぜなら、知らない世界で自分を守ってくれるものが何もなく、恐怖やストレスを解消できる手段が持てないのです。

 

例えるなら、生まれた瞬間からサバンナの荒野の中に放置されるようなものです。

 

これでは、外の世界を知るために動くどころか自分の身も守ることができません。

 

そしてまずそんな環境に置かれた人たちは外界を非常に恐れ(傷つくことを恐れ)、自分の周りに殻を作り、閉じこもってしまいます。

 

 この状態が"ひきこもり"です

 

人間のおける一番最初の依存先である親(養育者を含む)との関係が歪であった場合や依存できる相手がいなかった場合、子は自分を守る術(依存先)を自分で見つけようとします。

 

しかし、この人間世界で親(養育者を含む)ほど普遍で、無償の愛を注いでくれるものがあるのでしょうか。

 

つまり、依存先が親(養育者を含む)でない(本来ならば無償で得られるはずであったものが得られない)ということは、この世界で生きていくため(外に出ていくため)の最低条件を満たしていないということです。

 

それらは淘汰される側。弱肉強食の"弱肉"側。社会に不適合な人。と言われます。

 

生きていくことはできますが、漠然とした生きづらさが付いてきます。

 

 

ある人とない人での差

二元論で語るのはあんまり好きじゃないのですが、(というのもこの世界には二元論が通用しないことの方が多い、いわゆるグレーゾーンというやつ。)人間の基本的な依存先である親(養育者を含む)がいない場合、相当な生きづらさとなって表れてくるでしょう。

 

 まず、自分の存在を肯定されたことがないので自分が今、"ココ"にいて良いのか悩んでしまう。

 

これはとても大きな違いだと思います。

 

自分のありのままを肯定してくれる人がいなかった人は、自分の存在意義や、価値について考えるところから始まります。

 

自分は、なぜ生まれたのか、何のために生きているのか、誰が必要としているのかと思い悩み続けてしまいます。

 

これが負のループへの入り口で、悲しいのが「なぜ生まれたのか、何のために生きているのか」という問いには解が存在しないので自分で見出さないといけませんし、

 

「誰が必要としているのか」という問いに関しては外でしか見つけることができないので、守ってくれる人がいない人にとって外に出ていくことはめちゃめちゃ危ないことなので、見つけにくくなってしまいます。

 

そうして、「自分には価値がない、意味がない」という答えにたどり着き自分を殺してしまうことになります。

 

対して依存先がちゃんとある人はどうでしょう。

 

書くことはありません。なぜなら自分が"ココ"にいちゃいけないなんて間違っても思わないんですもん。

 

 

依存先は選ぶこと

"依存"自体は、悪いことではありません。

 

ただ、依存先を間違うと大変なことになります。

 

お勧めしないのが他人に依存すること

 

これは本当にお勧めしないし、なんだったら止めます。

 

僕自体、小中高大と他人(友達)に依存していると自覚していたのでその時の状態を書きます。

 

他人に依存すると、その人の言動や行動、態度に自分をまかせることになるのでまず精神が安定しません。

 

その人の機嫌が悪ければ自分も機嫌が悪くなるし、その人に嫌われたくないのでどんな要求も呑んでしまうようになります。

 

またその人の言うことがすべて正しいと思うようになり、その人の思い通りになっていきます。

 

半ば操り人形のようになりますね。怖いのが自分で自分を人形にしてしまうところです。傷つけられてもその人に好かれるためだと思って許してしまいます。

 

傷つかないために依存したのに、逆に傷ついてしまうという。

 

タチが悪いのが相手側もわかって傷つけてくるところですかね。

 

経験則ですが、依存される側は、依存してきやすそうな人のところに寄ってきます。

 

ただ、後々考えてみるとそういう人たちもまた、精神的に弱かった傾向があります。

 

つまり、弱い者同士でその場しのぎのために集まっているだけなのです。

 

じゃあ結局、何に依存すればいいの?

 

この問いに自分なりに答えてみようと思います。

 

僕の意見ですが答えはシンプルに"趣味"です。

 

僕は依存ばっかりしているときになかったものがあります。それは趣味自信

 

自分には好きと言えるものがないということが辛かったです。

 

昔から他人に依存することで、本当は自分が好きなものや言いたい事、思っていることなどを抑えてきたせいで、主張のない人間になっていました。

 

自分を抑えることが限界になった大学生時代に僕は自分が好きなものは何なのかと探しまくりましたよ。

 

ただ、外に出るのはとてもストレスだったので行けても週一だったりとかでしたが。

 

英語の特別コースに入ったり、バドミントンやったり、ランエク行ったり、ゲームしたり、ボランティア行ったり、ピアノを独学で始めたり、留学行ったり、、、、

 

そうすることで自分が好きなものをとにかく探しました。

 

結果、ああ、俺は筋トレがしたい。ピアノが弾きたい。語学がしたい。ってなったので、筋トレやピアノなんかに最近は依存しています。

 

筋トレやピアノは人じゃないのでいつでもやれるし、弾けます。

 

これってめちゃめちゃ大事だと思っていて、どんな時でも裏切らない存在が自分の中にあるという実感って何とも言えない充実感というか、精神安定に欠かせないものだと思っています。

 

自分の中で揺るがないものを持つことが精神安定につながり、活力を与えてくれるんだなと生まれて約20年たった今学びました。

 

もう一つ、"コミュニティ"もいいと思います。

 

間違えてほしくないのは人自体に依存するんじゃなくて、コミュニティに依存すること。しかも自分を歓迎してくれるコミュニティであること。

 

実際にコミュニティに入るということはそんなに難しいことじゃないんじゃないかなと思っています。

 

趣味の範囲でコミュニティを探すことをお勧めします。

 

 

依存度を分散させる

依存する対象を見極めた後に考えることがもう一つあります。

 

それは、依存度を分散させること。

 

人ではない依存先を見つけたとしても、自分のすべてがそれに依存していたら、もし依存先がなくなったときに大変なことになります。

 

例えば、100%筋トレに依存していてある日腰を痛めてしまったとしたら。

 

腰は筋トレするときに本格的にではないにしろほぼすべてのトレーニングで使いますし、言ったら日常生活にも支障をきたします。

 

腰を痛めたことで筋トレできなくなったとすると依存先がなくなるわけです。

 

精神は安定すると思いますか?ええ、答えはNOです。

 

100%依存しているので筋トレができなくなった瞬間におそらく軽い精神病にかかってしまうでしょう。

 

上記のものは極端な例です。

 

それでは、仮に依存度を筋トレ50%、ピアノ50%だとします。

 

すると筋トレができなくなったとしてもピアノは弾けるわけですね。

 

端的に言うと、筋トレできないストレスをピアノで解消できるというわけです。これなら筋トレ100%の時よりもいくらかましだと思いませんか?

 

こういった風に、学生時代のコミュニティ、部活、会社の仲間、家族(恋人)、趣味、趣味のコミュニティ、近所のコミュニティなどに依存度を振り分けていくんです。

 

そうすると、どれかが上手くいかなかったときに他のところが上手くいってるから大丈夫!っていう風になりやすいですよね。

 

このように依存先を増やしていくことも依存対象を選ぶことと同じくらい大事なことだろわかります。

 

 

依存することは普通のこと

 人間は依存しながら生きています。

 

多くの依存先を持つことで自分の精神を安定させることができています。

 

ただ、依存先の多くは年齢や環境によって変化していくので一定の時間しか依存することができません。

 

従って、変化のない、変化の少ない依存先を持つことが精神安定にはもっとも有効な手段だと考えます。

 

この世に依存していない人間は存在しません。もし依存してないように見える人がいたとしても、拠り所としているものがあるはずです。

 

これがあるから頑張れる、これのために頑張っているというものがありませんか?

 

程度の違いはあれどそれが依存先である可能性は高いです。

 

対象、程度を誤らなければ依存するということは人生においていい方向に人間を導いていくものだと思います。

 

これまで何回も書いてきた"依存"をみんなが正しく活用できるように願って終わりにします。

 

それでは、また!